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【漆黒のサムライ・弥助】

 燃え盛る本能寺の炎の中で自刃した信長公、遺骸は炎で灰燼に帰し、後に何も遺さなかった。これが歴史の通説である。
 ところが、信長公のデスマスクがあるという。「えっ、何で?」
 デスマスクは、『信長公御遺影』と書かれた紙片と一緒に桐箱に収められ、西山歴史博物館(館長・西山 武氏)に保管されているが、傷一つ無く、近年作られた様に初々しい。でもその面相は信長公の肖像画にそっくりなんだが・・・

 昨夜(6/8)放送のTV番組「世界不思議発見」(信長公の直系の子孫である、フィギュアスケートの織田信成選手も回答者として参加していた)で、そのデスマスクが紹介されていた。
 件のデスマスク作成の由縁には、信長公お気に入りの黒人ボディガード・弥助が関わっていたという。

 駒澤大学に保管されている“家忠日記(徳川家康の従兄弟)”に、「織田信長は、身の丈6尺2分(1.8m強)の黒男(くろおとこ)を連れていた、名は弥助」、と記されている。
 弥助は、ポルトガル人宣教師・ヴァリニャーノに伴われて来日。1581年、信長と初対面。信長公は、日本語も話せる屈強な黒人・弥助を大いに気に入り、当初、ボディガードとして雇い入れ、1年後には、甲州征伐(武田家滅亡)にも参戦させている。後々、黒人としては初めての“殿”として取り立てる心づもりでもあったらしい。本能寺の変がなかったら、本邦初の黒人大名が誕生していたかも知れない。

 弥助は、ポルトガル領であったモザンビーク(アフリカ南東部)の、ポルトガルの要塞があったモザンビーク島出身で、奴隷としてポルトガルの艦船に乗っていた。
 奴隷であった弥助は、奴隷から解放してくれた信長に感謝し、よく仕えたという。
 TV番組「世界不思議発見」のスタッフが、弥助の故郷であると思われるモザンビーク島に飛んで取材したところ、この地の男性の名前として“ヤスフェ”が一般的であることが分かった。『ヤスフェ → 弥助』、大いにあり得るではないか。
 余談だが、ポルトガル語では“肩“のことを“オンブロ”という。『おんぶに抱っこ』の“おんぶ”は、このポルトガル語“オンブロ”に由来するそうだ。

 幸せだった弥助の運命は、本能寺の変で一挙に暗転。
 弥助は、自刃して果てた信長公の生首を抱えて本能寺を脱出し、生首を近くの南蛮寺に預けた。信長公のデスマスクが遺された由縁である。
 弥助はその足で、信長公の恩義に答えるべく、せめて長男・信忠公だけは助けようと、その在所・二条新御所に向かい奮戦するも降伏。
 明智光秀は弥助の処遇を、「日本人でない故これを殺さず、聖堂(南蛮寺か)に置け」、とした。弥助に関する歴史上の記録はここまでで、弥助のその後の足取りは分からない。
 ただ、本能寺の変の2年後の1584年、九州で勃発した沖田畷(なわて)の戦い(キリシタン大名・有馬と龍造寺隆信との戦い)で、黒人が大砲の砲手として奮戦し、キリシタン大名・有馬方を勝利に導いた、とある。この黒人、弥助であったやも知れぬ。本能寺の変の後、弥助は、面識のある西国のキリシタン大名・有馬氏を頼って行ったのだろうか。

 モザンビーク島のお祭りで、女性が着る衣装を“キマウ”という。“キマウ”は日本の着物によく似ている。もしかしたら、弥助は故郷・モザンビーク島に帰り、日本の文化(着物など)を故郷に伝えたのかも知れない。
 駐日モザンビーク大使のヘルミロ・ジョゼ・マラテ氏は、「弥助と信長の出会いは、今に繋がる日本とモザンビークの友情の種、最初の切っ掛けだった。モザンビーク人として、弥助の行ったことを誇りに思う。これからも私たち二カ国は、二人が築いてくれた友情を未来に繋げていきたい」、と述べている。
 日本がアフリカとの関係を深めつつある現在、漆黒のサムライ・弥助は、現代に蘇ってくれるのではなかろうか。
(TV番組「世界不思議発見」から)

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